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令和になって変わった金隈遺跡発見の経緯

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 2年間にわたる改修工事が終わり、今年5月にリニューアルオープンした金隈遺跡展示館をのぞいてきた。金隈遺跡は弥生時代の共同墓地の遺構で、甕棺墓を中心に469基もの墓と136体の人骨が出土した。1985年に開館した広さ約360平方㍍の展示館には、125基の墓がほぼ発掘当時の姿で保存され、埋葬されていた本物の人骨4体さえも展示されているユニークな施設だ。改修工事の理由は、土中に含まれる塩分が遺跡表面を破損させていたためで、塩分を除去する工事が行われる一方、展示・解説スペースも一新された。

 その展示・解説スペースに掲示された解説パネルに、金隈遺跡発見の経緯について、少しおかしなことが書かれていた。「昭和43(1968)年の春、道路工事中にかめ棺と人骨が見つかりました」とあったのだ。どこがおかしいのかと言えば、福岡市は今まで「桃畑の開墾作業中に発見された」と説明してきた。遺跡のパンフレットなどはもちろん、市史にさえ、そう記載してきたのだ。

 遺跡発見の経緯について、市の公式文書でも混乱があることは過去にもこのブログでも取り上げたことがある(「金隈遺跡展示館、2年間休館へ」)。遺跡発見受けて行われた緊急調査の報告書(1970年)には、宅地を買った鉄工所経営者が用地への取り付け道路工事を始めたところ、甕棺、人骨等が見つかったと書かれていた。ところが、遺跡が史跡公園として保存・整備された際に出された報告書(85年)で、新たに桃畑開墾説が登場し、以降はこれが公式見解として扱われてきた。それが令和の時代になった途端、最初の道路工事説に戻ったのだ。

 個人的には、遺跡発見直後の報告書、つまりほぼリアルタイムの証言とも言える道路工事説が正しいのではないかとみていた。ただ、これでは何らかの差し障りがあり、桃畑開墾説が生み出されたのではないかと。遺跡発見の経緯など、どうでも良いではないかと言われれば、その通りなのだが、仮にも国史跡についての基本的な事項の説明が二転三転するのは実に不思議だと思う。

 最後に「金隈遺跡展示館、2年間休館へ」で大きなミスをしていたので、この場で訂正させていただきたい。「北部九州の弥生時代遺跡から見つかる人骨は、武器の破片が骨に突き刺さっていたり、首がなかったりなど戦乱の激しさを物語るような例が多いが、金隈遺跡についてはそういった報告はない。この集団墓地に葬られた人々のムラは例外的に平和だったのだろうか」と書いていたのだが、金隈遺跡の甕棺の中からもやはり武器の破片が見つかり、戦死者の可能性が指摘されていたのである。報告書の読み込みが不足していた。

 金隈遺跡があるのは、福岡市博多区金の隈1-39-52。金隈遺跡前という西鉄バスのバス停が近くにあるが、バス便が1時間に1本程度と福岡市内とは思えない程少ない。展示館の開館時間は午前9時~午後5時で、月曜と年末年始が休館。入館料は無料。展示館リニューアルに伴い、パンフレットも一新された。新たに英語、中国語、韓国語の説明も加わり、海外客には親切なものとなったが、パンフレットのサイズは変わっていないので、記載されている情報量は格段に少なくなった。
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