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明治25年の山本與志介暗殺事件

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 福岡市が戦前の1939年(昭和14年)に発行した『福岡市市制施行五十年史』重要年表の明治25年(1892年)12月の欄に、次の一文があった。

 山本與志介暗殺さる(廿七日)

 山本與志介とは何者かというと、実はこのブログでも以前、名前だけは取り上げたことがある。『五十年史』掲載の写真に、「神吉某」なる匿名同然の人物が写っていたことを題材に約1年前、「明治23年の集合写真、神吉某の正体は」という記事を書いたのだが、この写真で、神吉の右隣りに写っていたのが山本與志介だったのだ(写真の円内)。

 山本は1889年(明治22年)4月の選挙で誕生した福岡市議会(定数30)の初代議員の一人で、福岡最初の銀行、第十七国立銀行の創設に関わったメンバーでもある。つまり明治の福岡政財界の中枢にいた人物だったわけで、この山本が暗殺されるとは穏やかではない。事件の背景や顛末を探ろうと、『五十年史』のほか、『福岡市史』『福岡市議会史』の各明治編や朝日新聞の縮刷版などを必死にめくってみたのだが、全く収穫はなし。ようやく福岡市総合図書館のデータベースで探し出したのが「紳士打殺さる」という物騒な見出しの1893年1月12日の読売新聞記事だ。

 ◎紳士打殺さる 福岡県福岡市に於て一二を争う財産家にして第十七国立銀行の監査役を務め、商売社会には余程勢力もありたる山本與志介氏は旧臘二十七日、同地東公園一方亭の忘年会より帰りの途、松原に於て何者にか殴打され入院療養中なりしが、痛く脳蓋骨を打砕かれたるため遂に死去したるよし。犯罪人は未だ何人とも分らず、随って原因も不明なりと云う。福岡の天地は稍殺気を帯び来れり。(※旧臘は昨年12月のこと。記事は現代仮名遣い、当用漢字に直し、句読点を加えた)

 記事中にある一方亭とはその昔、東公園にあった有名料亭で、山本はここであった忘年会の帰り、松原で何者かに襲われて頭蓋骨骨折の重傷を負い、治療を受けたものの助からなかったということらしい。事件の状況は、わずかながら判明したが、記事にもある通り、容疑者が逮捕されていない段階での報道であるため、動機は一切不明。そもそもこの事件が、本当に何らかの政治的意図を持った暗殺事件であったのかさえ不明だ。

 先のデータベースで、「福岡」「博多」といった間口の広いキーワードで事件の続報を探してみたのだが、見つけることはできなかった。当時の読売新聞は東京ローカル紙で、福岡に関連する記事自体が非常に少なく、これらのキーワードで続報がヒットしなかったということは、続報自体がなかった、少なくともデータベースには収録されていないということだろう。県立図書館に収めてある地元紙のマイクロフィルムを当たる手もあるが、マイクロフィルムはデータベースと異なり、掲載日があらかじめわかっていないと、目指す記事を探し当てるまでには膨大な手間がかかる難点がある。このブログらしく情けない結末だが、「山本與志介暗殺事件」の顛末は今後の宿題としたい。

 蛇足だが、山本が市議を務めていた1890年(明治23年)2月6日の市議会本会議で、福岡市の歴史に残る建議が出されている。「福岡市の市名を博多市に変えよ」という、地元では有名な代物だ。当時の市議選は、博多、福岡の2選挙区に分かれて行われており、定数は博多側が17、福岡側が13。即座に採決が行われれば、恐らく市名変更案が採択され、現在この街は「博多市」という名前だったに違いない。長くなるので詳細は省くが、すったもんだの末に同月14日に採決が行われ、変更案は13対13の可否同数(議長1、欠席3)となり、議長(代行者)の判断で否決とされた。

 市政に役立っているとは思えない福岡市議会の歴史の中では、唯一にして無二の大採決だったのではないかと思うが、3人もの欠席者がいる。彼らが採決に加わっていれば、結果は違った可能性があり、「欠席者は軟禁されていた」などという話さえ伝わっている。この欠席者の一人が山本與志介。山本殺害には、市名を巡る遺恨が絡んでいるのではないかと疑ったのだが、山本はそもそも福岡側の選出なので、仮に出席していたところで、「市名は福岡市」という採決結果は変わらなかったと思う。

 ちなみに残る2人の欠席者は太田清蔵、丸田重雄で、いずれも博多選出。山本、太田の2人は問題の2月議会は全休し、丸田は採決日以降の3日間を欠席している。「欠席者は軟禁」が仮に事実だとしたら、恐らく丸田が当事者だろう。

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