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首羅山遺跡登山道、28日開通へ

首羅山遺跡

 福岡県久山町にある首羅山(しゅらさん)遺跡の登山道が3月28日、開通する。藩政時代に貝原益軒(1630-1714)が著した地誌『筑前国続風土記』に滅亡の伝承が記録されながらも、近年まで存在が確認されていなかった幻の中世山林寺院跡で、標高289㍍の白山山中の広い範囲に遺構が広がっている。低山ながら登山道が未整備で、調査も続いていたため、これまでは年1回程度開かれる見学会に参加するしか一般人が目にする機会はなかった。登山道整備で、ようやく遺跡は通年で開放されることになる。開通日は仕事で無理だが、なるべく早く行ってみたいと思い、最近はお役御免気味だった山歩き用の靴を靴箱の奥から引っ張り出した。

 『続風土記』に記録されている首羅山滅亡の伝承については以前、
「『油山天福寺跡』探索行」で紹介したことがあるが、要約すると以下の通りだ。

 白山の山中には昔(藩政時代にはすでに昔の話だった)、白山頭光寺という天台宗の寺があり、本谷、西谷、別所地区に各100坊、山王地区に50坊の計350坊の僧房があった。いつの時代かは不明だが、本谷の稚児がみかんがたくさん実ったことを誉めたところ、別所の僧たちが「花を誉めれば、風流なのに、果物を誉めるとは卑しい子供だ」と嘲笑した。これを恥じた稚児が谷川に身を投げ自殺したことから、本谷の僧たちは激怒し、西谷も同調。ついには本谷、西谷と別所との間で激しい焼き討ち合戦となり、3地区の僧房は滅亡。唯一残った山王の50坊も天正14年(1586)、筑前に攻め入った島津軍に焼き払われ、ついに頭光寺は滅び去った。
 
 こういった伝承のみが地元に伝わっていた白山山中の山林寺院について、久山町教委が2004年、地元の要請に応じて確認調査を行ったところ、遺構が極めて良好な形で残っていることが判明した。これを受けて翌年の05年から発掘調査が始まり、平安時代から鎌倉時代にかけて最盛期を迎えた大規模寺院の歴史が次第に明らかになっていった。発掘開始から8年後の2013年には国史跡にも指定されている。

 調査の成果をざっくりまとめると、遺構は、本谷、西谷、山頂、日吉(山王)の4地区から見つかり、このうち本谷地区からは五間堂の基壇や礎石など伽藍建築の遺構が確認され、寺院の中心部があったとみられている。また、博多湾を望める山頂地区には薩摩塔や宋風獅子(一種の狛犬)などが現存(写真)し、遺跡のシンボル的な存在ともなっている。薩摩塔とは、鹿児島で初めて確認された石塔のため、この名が付いたが、分布の中心は北部九州。宋風獅子とともに中国・南宋で製作されたとみられ、日宋貿易を担った博多在住の中国人貿易商「博多綱首(こうしゅ)」とのつながりが指摘されている。寺院の廃絶は15世紀とみられるという。

 益軒は実際に見た寺院跡の様子を、『続風土記』に次のように書き残している。「今むかしの址を尋見るに、げにも土民の言伝へしごとく、三百五十坊もありつらんと見えて、所々僧房の旧跡おびただしく広し。皆荒野となれり。(中略)其址山中に所々多く、石の塔など残りし所もあり」。平成の調査で明らかになった寺院跡は、約300年前に益軒が書き残した当時のままの姿で、さながら山全体がタイムカプルだったかのようだ。遺跡のある久山町は1970年代、町のほぼ全域を市街化調整区域にし、「鎖国」などとも呼ばれた極端な開発抑制策をとっていたことで知られる。賛否両論あったこの政策も、首羅山遺跡の保存に関してはプラスに働いたのだろうか。

 なお、遺跡からは大規模火災の跡は見つかっていない様子で、稚児の死を巡る焼き討ち合戦の伝承については、信憑性は「?」といったところだ。
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