裁判所跡地、古代防衛施設の遺構確認調査へ

2020年03月18日
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史跡探訪
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 福岡市中央区城内で、福岡地方・高等裁判所旧庁舎の解体作業が佳境を迎えている。裁判所とは全く無縁の人生を送ってきたので、別に恨みつらみはないが、あのいかめしい建物がボロボロになった姿を見ると、何となく痛快だ。この場所には、古代の迎賓館「鴻臚館」の関連施設で、博多湾の防衛を担った鴻臚中島館(博多警固所)があったとも推定されている。更地になった後は、遺構の確認調査が予定されており、この調査で、鴻臚館の発見(1987年)以来、延々と続いてきた発掘調査は締めくくりとなる。もっとも遺構確認調査が終わるのは、順調に進んでも2027年度。まだ7年も先のことだ。

 鴻臚館とは、7世紀に設置されたとみられる筑紫館を前身とする古代の外交・通商施設で、11世紀半ばごろまでの約400年間、対外交流の窓口だったとされる。後の時代に鴻臚館の所在地は不明となり、藩政時代には博多の官内町(現在の博多区中呉服町、上呉服町付近)が有力な候補地と目されていたが、大正時代、これに異を唱えたのが、九州帝大医学部の教授だった
中山平次郎博士。博士は、古歌にうたわれた風景などから福岡城址だった可能性が高いと推定した。当時、城址には陸軍の福岡第24連隊が駐屯していたが、年に一度、博多どんたくの際に開放されるのを利用して古代瓦などの遺物を採集、城址に鴻臚館があったとの確信を深めた。博士の見立て通り、1987年12月、城址にあった平和台球場外野スタンド改修工事で鴻臚館跡は姿を現した。

 この翌年の1988年度から始まった発掘調査は、計7期に分けて行われ、最終7期で予定されているのが裁判所跡の鴻臚中島館遺構確認調査。ただし、鴻臚館の中心で、外交使節の宿泊・接待施設だった南北の客館の調査はすでに終了し、発掘現場を建物で覆った展示館や芝生広場となっている。市が2015年春にまとめた鴻臚館跡の整備基本構想では、長期的には南北客館の復元も検討されることにはなっている。しかし、鴻臚館に先立ち、市長がラッパを吹き鳴らして華々しく始まった福岡城の復元がどう見ても滞っている(
「発掘調査が続く潮見櫓跡、復元はいつになる?」参照)ことを思えば、鴻臚館復元は全くの期待薄だろう。

 裁判所跡地で遺構確認が行われる鴻臚中島館は、869年(貞観11)に起きた新羅の海賊侵入事件を受け、博多湾防備のために建設された施設で、大宰府の兵員や武具が配備されたと伝えられる。「博多警固所」とも呼ばれ、1019年(寛仁3)の「刀伊の入寇」(女真族の襲撃)の際には、鴻臚中島館が激戦地となったという。福岡市教委の発掘調査報告書『鴻臚館跡18』(2009)には「こうして、鴻臚館はその当初に期待された出入国窓口機能に加え、博多湾の防衛という、いわば国防機能も負うことになる」と記されている。鴻臚館は対外交流だけでなく、国防の最前線でもあったのだ。

 この鴻臚中島館という名称は地形を表したものだったようで、裁判所跡地が所在地として推定されているのは、ここが鴻臚館本体のあった平和台球場跡地とは大きな谷で隔てられ、島のような地形だったことに由来する。ただし、近年ではJR博多駅北側の博多遺跡群を鴻臚中島館の跡地とする考えが有力らしい。同遺跡群からは、地下鉄七隈線工事の際、イスラム陶器など鴻臚館跡と類似する遺物が大量に出土したほか、この地が古代は博多湾内の島だった可能性がある、などの理由からだが、とは言っても古代の武具が大量出土するなど決定的な物証が出てきたわけでもない。鴻臚中島館がどちらであっても構わないが、宙ぶらりんのままは嫌なので、裁判所跡地から、所在地論争に決着をつけるような遺構や遺物が発見されるのを期待したい。


 ※昨年3月に書いた「格納庫だったワインセラーで竹灯籠を見た」に「追記」を加えました。
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