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神籠石は朝倉橘広庭宮を守っていた?

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 神籠石(こうごいし)と呼ばれる列石遺構が、北部九州と瀬戸内地方の山中だけに十数か所残っている。文献には記録されていないため、築造時期や目的等は不明で、古代山城と考える研究者と、宗教的な遺構(神域)と考える研究者との間で長年論争が続いていた。現在では山城説が支配的で、「神籠石式山城」という呼び方もされるが、この山城説に絡んで興味深い考察が『新修志摩町史』(2009、志摩町は現在糸島市)にあった。神籠石は、朝倉橘広庭宮防衛のために築かれたというのだ。 

 朝倉橘広庭宮とは、先日書いた「隠家森は1300年前、本当に森だった」でも取り上げたが、7世紀、百済復興のため朝鮮半島出兵を企図した斉明天皇が、その前線基地として造営したと伝えられる仮の宮だ。正確な場所は特定されていないが、現在の福岡県朝倉市にあったと推定されている。同市にも杷木神籠石が残る(写真)。朝倉橘広庭宮防衛説を自分なりに考えてみようと思い、九州北部に残る神籠石の位置を地図に落としてみた。見事なまでに、神籠石は朝倉市を取り囲むように配置されていた。

 出来上がった地図を見て、もう一つ気付いたのは、多数の神籠石が、なぜか九州道や大分道など現在の高速道路沿いに位置していることだ。福岡県上毛町の唐原山城跡のように、開通して間もない東九州道に面した神籠石さえある。不思議に思い、色々資料を漁ったところ、『続古代の道』(武部健一、2005)に面白いことが書かれていた。古代の官道・西海道のルートが現代の高速道路と驚く程一致するというのだ。合理的なルートを選んだら、古代の官道も、現代の高速道路もほぼ同じになったということだろうか。

 杷木神籠石は現地説明パネルによると、筑後川の流れと筑後平野をともに見渡せ、さらに筑前・筑後と豊前・豊後とを結ぶ交通の要衝にある。他の神籠石の多くが位置するのも交通の要衝。西海道の整備は8世紀とされるが、朝倉橘広庭宮防衛説に立てば、神籠石の築城はこの直前の7世紀後半ということになる。西海道は、防衛拠点であり、交通の要衝に置かれた神籠石を結ぶ形でルートが決まったと考えれば、神籠石の多くが高速道路沿いに位置していることに納得がいく。

 朝倉橘広庭宮の場所については、藩政時代の儒学者、貝原益軒は福岡藩の地誌『筑前国続風土記』の中で、須川村(現在の朝倉市須川地区)に宮があったという村人の伝承を紹介、昔は一帯に多くの礎石があったと記している。この場所は、少なくとも昭和初期までは橘広庭宮の遺構と信じられ、九州帝国大の鏡山猛氏らにより発掘調査も行われている。結果としてこの礎石は奈良時代の廃寺跡だったという。斉明天皇は661年7月、この宮で崩じているが、葬儀の模様を朝倉山上から大きな笠を着た鬼がのぞき見し、人々は驚き怪しんだと『日本書紀』は伝えている(「是夕於朝倉山上有鬼、着大笠臨視喪儀。衆皆嗟怪」)。

 ※ブログの表示が重いため、写真をリサイズ中で、併せて身辺雑記の色合いが濃かった記事約250本の公開を取りやめ、一部記事の修正も行っています。この記事は「斉明天皇と神籠石」のタイトルで2013年10月に更新したものでしたが、前文を中心に大幅に書き直し、改めてアップしました。
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