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福岡城潮見櫓の復元、ようやく着工?

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 福岡市中央区の舞鶴公園お堀端にある潮見櫓跡地がフェンスで囲われている。フェンスの一角には、石垣の保存修復工事を告知する看板が立てられ、工事期間については「令和2年2月27日から令和3年8月31日まで」とあった。また、看板の横に掲示されているB4サイズの紙には、今年から潮見櫓の復元工事に着手するが、そのために13本の樹木を撤去すると書かれていた。福岡市が2014年に策定した『福岡城跡整備基本計画』では、潮見櫓の復元工事は2年前の2018年3月までには完成しているはずだが、現実には工事が始まる気配さえなく、不審に思っていた。看板等を見る限り、ようやくにして今年、復元工事が動き出す。

 潮見櫓跡地があるのは、城跡の西北端に当たる土塁上で、かんぽ生命福岡サービスセンターの隣。一見、石垣など全くない場所なので、「石垣の保存修復工事」と書かれた看板に首をひねったが、土塁の基礎部分には土留めのための腰巻石垣がある跡地の地中には櫓の基壇となる石垣が一部残っている。1年半がかりの工事では、基壇の修復が行われるのだろう。工事を請け負っている広洋建設工業は、博多区に本社を置く地場企業。同社ウェブサイトによると、史跡の石垣修復も手掛けており、過去には大分県玖珠町の角牟礼城石垣の解体修復や、福岡城跡でも3号堀に面した土塁の腰巻石垣修復を行った実績がある。

 潮見櫓については、このブログでも過去に取り上げているが、その正体を巡って混乱があった櫓だ。福岡城には藩政時代末期、47以上の櫓があったとされるが、城は明治維新以降、駐屯していた陸軍の管理下に置かれ、櫓の大半は老朽化で解体されたり、旧福岡藩主の黒田家や同家菩提寺の崇福寺(博多区)に払い下げられたりした。博多湾の警備を担っていた2階建ての潮見櫓は1909年(明治42年)、花見櫓とともに崇福寺に移築され、仏殿として利用されていたが、経緯は不明ながら月見櫓だと誤認されてきた。

 1991年、福岡市が将来の復元に備えて両櫓を買い戻したのだが、同年3月、復元に先立つ準備作業として月見櫓跡の発掘調査を行ったところ、基壇よりも現実の建物がずいぶん大きなことがわかり、本当に月見櫓なのか疑問符が付いた。さらに同年6月、櫓の解体に伴って行われた調査で、潮見櫓だったことを示す棟札が見つかり、伝えられてきた櫓名に間違いがあることが明らかになった。紛らわしいのは、潮見櫓と誤って伝えられてきた別の櫓があることで、こちらは黒田家別邸(現在の中央区舞鶴3丁目にあった)に移築された後、戦後になって現在地の下之橋御門横に復元されている。本当の潮見櫓が別に存在することがわかり、現在では「伝」潮見櫓という、これまた紛らわしい名前で呼ばれているが、正体は太鼓櫓ではないかとみられている。

 『福岡城跡整備基本計画』は、2014年度から28年度までの15年間で、現存する建物の改修や武具櫓などの復元を目指している。復元の第1弾となるのが、30年近く前から解体保存という名目で、事実上ほったらかしにされてきた潮見櫓。冒頭に書いたように、本来ならば2018年3月までには工事を終え、明治通りからも見える土塁上にその勇姿を現しているはずだったが、跡地では最近まで、延々と発掘調査が続いていた。

 整備基本計画の実現には70億円の巨費が必要と見込まれているが、このうちの3億5000万円を市民や企業からの寄付で賄い、潮見櫓など一部建物の復元に充てようというのが市の腹積もりだったとされる。ところが、寄付金集めは遅々として進んでいない。大方の市民は、福岡城整備などに関心がないのだろう。これが潮見櫓の復元を阻んでいたと思える。

 それでも今年、復元工事に踏み切ったわけだが、寄付金が全く足りていないのだから、その費用は公費が充てられることになる。だが、新型コロナの感染拡大という思わぬ騒動が起き、営業を自粛する店舗等への協力金などで多額の予算が必要となった。この状況の中で、市民の関心がさして高いとは思われない城跡整備に対して血税を投じることに、広く理解が得られるのか、やや疑問を感じないでもない。潮見櫓復元については、一度先走った記事を書いたこともあるので、現在の状況に鑑み、タイトルには念のため「?」を付けた。


 ※「古代に糸島運河はあったか」を一部書き直しました。
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