黒門の馬頭観音と愛宕の馬市

2020年05月18日
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歴史雑記
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 福岡市中央区黒門は、藩政時代にあった実在の門から名付けられた地名で、1963年に行われた町界町名整理により、新大工町、西唐人町、大濠町の3町を統合して誕生した。ただ、少し不思議なのは、黒門があったのは明治通りを挟んだ現在の荒戸3丁目、数年前まで『黒門飴』の板谷商店があった辺りで、近接してはいるものの、全く別の町に黒門の名を付けたことになる。黒門は幕末、暗殺予告の斬奸状が張り出されていた場所で、この歴史を嫌う住民の中には、黒門への町名変更に反発する声が当時あったという。

 昔ながらの狭い路地に面して一軒家が立ち並ぶ住宅街だが、比較的広い通り沿いは、例によってマンション街に変わりつつある。そんなマンションとマンションの間に挟まれた谷間のような場所に、馬頭観音を祀った小さな祠があり、以前歴史を調べたことがある。建立の経緯については、農民の善三が飼い馬の死を悼み建てた、福岡藩士が焼死した愛馬を祀った、という二つの説があったが、奇妙なことに、建立した年は両説ともに天明3年(1783年)で一致していた。

 どちらの説が正しいかは判断しようがないが、農民説の出典は、福岡藩が生んだ有能な国学者、青柳種信(1766~1836)が、1814年(文化11年)から編纂に取り組んだ福岡藩の地誌『筑前国続風土記拾遺』。これは、1709年(宝永6年)完成の『筑前国続風土記』、これに続く『筑前国続風土記附録』(加藤一純、鷹取周成)の内容を、藩命を受けてアップデートさせたもので、種信はその実地調査のため延べ9年間、藩内をくまなく歩き回ったと伝えられる。『拾遺』への信頼性もあってか、この記事を書くに当たって参考にした福岡市刊行の『ふくおか歴史散歩』(第3巻)は、農民説の方をメインで取り上げていた(タイトルには藩士を使っているが)。

 『歴史散歩』によると、馬頭観音では明治20年(1887年)頃まで、「馬市」が毎年開かれていた。近郊の農民たちが自慢の飼い馬を美しく飾って集まり、愛宕神社(現・福岡市西区)まで参拝する催しで、数十頭、数百頭の馬が行進する姿は壮観だったが、都市化の進展で農耕馬が次第に少なくなり、廃れていったという。

 ただ、この馬市については、他資料では馬頭観音ではなく、愛宕神社の祭礼として紹介されていた。明治時代の博多の風俗画を多数描いた日本画家、祝部至善(ほうり・しぜん、1882~1974)は飾り立てた馬の絵を残しているが、これには「愛宕様の馬まいり」と記されている。

 また、『博多年中行事』(佐々木滋寛、1935)によると、馬市は正式には、愛宕神社の鎮火開運祭。毎年正月24日、「近在の馬の所有者が馬を美しく装わせ、その胸がひ尻がひには鈴をつけて馬道を登って参詣したもので、一名シャゴシャゴ馬と呼び…」と説明されていた。(※胸がひ尻がひは、装飾用の馬具の一つで、胸繋、尻繋と書く)

 この愛宕の馬市と良く似た祭礼が、鹿児島神宮(鹿児島県霧島市)で現在も続いている。正月行事の鈴懸馬(初午祭)で、神社の公式サイトには「御神馬の鈴懸馬を先頭に多数の踊り連が続き人馬一体となり踊りながら参詣する全国に類を見ない特殊神事」と紹介されている。この祭礼は馬頭観音建立がきっかけで始まったという説もあり、愛宕の馬市もやはり、馬頭観音と関係はあったのだろう。

 それにしても農耕馬が不要になった現在、こういった祭礼に登場する馬たちは普段、どこで飼育されているのだろうか。これは約30年前の話だが、当時暮らしていた宮崎市で、馬を飼育する農家の男性とたまたま話をしたことがある。彼は、秋の宮崎神宮大祭のために馬を飼い続けている面があると語っていた。祭りは、市の目抜き通りを練り歩く大行列が有名で、市長も馬に乗って登場するのだが、「市長が乗ると、大方の馬が嫌がって暴れるが、うちの馬だけはおとなしく乗せるので、祭りにとって大事な存在だ」と笑っていた。馬が主役の祭礼は、こんな人たちによって守られているのだろうか。
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