聖福寺に伝わる「伝」頼朝像の模写

2020年05月27日
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歴史雑記
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 先日、山川出版から出されている高校日本史の教科書『詳説日本史』(2010年改訂版)をめくってみた。私たち中高年が源頼朝の肖像画だと習ってきた京都・神護寺所蔵の絵画(国宝)を巡り、足利尊氏の弟、直義を描いたものだとの新説が出され、論争が続いている。教科書はどう扱っているのだろうと、ふと疑問を覚えたのだ。ところが、問題の肖像画は掲載されていなかった。それどころか、登場する歴史上の人物の肖像画自体がほとんどなく、これには少し驚いてしまった。

 ほぼ半世紀前、私が高校生だった頃の日本史の教科書は、2人の王子を従えた聖徳太子像をはじめ、平清盛、源頼朝、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康等々、肖像画のオンパレードだった記憶がある。なぜ、消えたのか。頼朝以外にも聖徳太子や足利尊氏など、肖像画に疑義が出されている例がほかにも複数あることが理由らしく、この一件について取り上げた書籍(『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』河合敦、2006)もすでに出版されていた。私が感じた疑問など今さらの話だったわけで、この書籍の存在を知り、肖像画問題について、これ以上の深追いはやめた。

 話は変わるが、神護寺の「伝」頼朝像を模写した絵画が、福岡市博多区の古刹、聖福寺(写真)に伝わっている。模写といってもパチモノの類いではない。聖福寺が1698年(元禄11年)、頼朝の五百年遠忌法要を行った際、福岡藩の御用絵師で狩野派の重鎮でもあった狩野昌運によって描き写されたというから、極めて由緒正しいものだ。2014年2月に市の文化財に指定され、その際にこの絵の存在を知った。聖福寺は鎌倉時代の1195年(建久6年)、宋から帰国した栄西が創建したとされる日本最古の禅寺。土地は頼朝から賜ったと伝えられ、寺は頼朝を大恩人と仰いでいる。これが五百年遠忌を行った理由だ。

 文化財指定の際の市発表資料によると、狩野昌運に模写を命じたのは、福岡藩の3代藩主で、当時は家督を譲っていたものの依然として藩政への影響力を保っていたという黒田光之。完成後、聖福寺に寄付したという。狩野派の実力者が前藩主の命で描き上げた力作だったわけで、「近世筑前の絵画史上に足跡を残した絵師狩野昌運の代表的な作例として、本市に所在する近世絵画の中でも特に優れた作品の一つに数えられる」とまで市は評している。

 また、この模写は「神護寺像が17世紀末元禄年間の段階では確実に源頼朝の肖像であると認識されていたこと」を証明するもので、福岡市の文化財指定以前から、知る人ぞ知る作品だったようだ。2012年には奈良国立博物館で開かれた特別展『頼朝と重源』で公開されているが、頼朝・直義論争の関係もあって注目を集めている。地元福岡でも、2013年に福岡市博物館で開かれた『日本最初の禅寺 博多聖福寺』展で展示されている。一度は実物を見てみたいので、次の機会があるのを期待している。
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