2020/05/31
団地の公園みたいな板付弥生のムラ
福岡市博多区にある板付遺跡は、我が国で稲作が始まった弥生時代初め(紀元前4世紀頃)の集落跡として全国的にも有名な遺跡で、1976年には国史跡に指定され、1995年6月には環濠集落を復元した史跡公園「板付弥生のムラ」が全面オープンしている。環濠集落のほかにも、水田や用水路、ガイダンス施設などを備えた立派な施設なのだが、全体の広さは2万8,000平方㍍弱と、佐賀県の吉野ヶ里歴史公園(広さは100㌶超)などに比べれば、非常に小規模だ。また、周囲を市営住宅団地などが取り巻いていることもあり、初めてこの公園を見学した時は「まるで団地の公園だな」という印象を持った。住宅街のど真ん中に、歴史的にも重要な遺跡がひょこんとあるのも、コンパクトシティを標榜する福岡らしい景観なのだろう。
ただ、市民の生活空間との近さが災いしてか、遺跡は過去に度々不審火に見舞われている。弥生のムラ開園当初、環濠集落内には計12軒の竪穴式住居が復元されていたが、現在残っているのは一桁だ。福岡市というのは文化財が不審火で度々燃える街で、板付遺跡以外でも、西区の野方遺跡の復元竪穴式住居が焼け、福岡城内の下之橋御門なども焼失している。これは昭和30年代の話だが、城内にあった平和台球場での西鉄ー巨人の日本シリーズを徹夜で待っていたファンが、寒いからと、城址の板材を引っ剥がして焚火にしたという逸話も聞いたことがある。これについては不審火ではないし、真偽も不明だが。
話を戻すと、板付弥生のムラの環濠集落は、V字形に掘られた南北110㍍、東西82㍍の濠で囲まれ、中央の広場を取り巻く形で住居跡が配置されている。当然、発掘成果をもとに、忠実に復元されたのだろうと思っていたが、住居跡については別の遺跡をモデルに復元されたものだと最近知った。板付遺跡からは、足跡まで残っていた水田跡をはじめ、環濠、墓地、住居跡など弥生時代の集落を構成する遺構がひとそろいで発見されたことも貴重なのだが、住居跡が確認されたのは環濠外。肝心の環濠内は、近世に墓地や農地として利用されたため激しく削られ、住居跡は残っていなかったという。
たまたま1992年、隣町の粕屋町・江辻遺跡で、板付遺跡とほぼ同時代の集落跡が見つかり、11軒の竪穴式住居跡が出土した。これを主なモデルに、板付弥生のムラの環濠集落は復元されたのだ。竪穴式住居は、直径4㍍前後の円形で、内部は床面の中央にくぼみがあり、この両側に柱穴とみられる二つの穴があるのが特徴だ。朝鮮半島の松菊里遺跡で見つかった住居跡を参考にしたとみられることから、「松菊里型住居」と呼ばれ、稲作とともに半島からもたらされたとみられている。
福岡市教委の報告書によると、松菊里型住居の床面のくぼみは炉ではないかとみられるが、灰や焼け跡が残っているケースが少なく、断定はできないという。また、二つの穴についても間隔が狭く、直径も小さすぎるなど柱穴と考えるには問題があるが、他に柱穴はないため、2本の柱で屋根を支える構造で復元住居を設計したという。吉野ヶ里遺跡や平塚川添遺跡(朝倉市)に復元されている竪穴式住居に比べ、板付遺跡のものは妙に丸っこいなと思っていたが、ちゃんとした理由があったのだ。さらに一軒一軒についても屋根の葺き方を微妙に変えるなどして個性を持たせた、と市教委は説明している。
復元住居にはこれだけの手間暇がかけられ、加えて、当然ながら相応の予算が注ぎ込まれている。板付遺跡の場所には、以前は寺や住宅があり、用地の買い取りには14年もの歳月と20億円近い費用が投じられ、さらに8億円をかけて弥生のムラは整備された。こうして出来上がった文化財に火を付け、喜ぶ輩が世の中にはいる。防火設備を整える以上に、警察に容疑者を確実に逮捕してもらった上で、刑事罰とともに、損害賠償を負わせることが、何よりの防火対策になるはずだと思うが、残念ながらこれがうまくいっていない。
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