2020/06/11
考古学の不可解さが詰まった那珂八幡古墳
先日、福岡市博多区竹下を歩き回った際、近くにある前方後円墳、那珂八幡古墳を5年ぶりに見てきた。昨年、市埋蔵文化財課が1985年以来の発掘調査を行い、古代史の定説に一石を投じる発見があったと報じられていたが、いったいどこを掘ったのだろうと思いながらも、なかなか行く機会がなかった。現地に立ってみると、今まで埋蔵文化財課のプレハブ倉庫(那珂整理室)があった場所がきれいな更地に変わっていた。ここは古墳の前方部に当たる場所で、来年には医院が開院予定だという。土地の開発が決まったため、急ぎ調査が行われたのだろう。
1985年の発掘調査当時、この場所には保育園があり、調査は手つかずのまま終わっていた。このため那珂八幡古墳の規模は、実のところ不明で、推定される全長などは、資料によってまちまちという状態だった。今回の調査でようやく判明した規模は、全長が約86㍍、後円部の直径が約52㍍、前方部の長さが約34㍍。那珂八幡古墳はこれまで、後円部の直径と前方部の長さの比率が2:1の纒向型古墳とみられていたのだが、確定した比率は8:5で、纒向型とは違うプランの古墳であることが明らかになった。
私みたいな素人には古墳の比率などチンプンカンプンの話だが、古代史の定説に一石を投じたというのは、実はこの部分だ。纏向型古墳とは、奈良県桜井市の纒向遺跡にあるヤマト王権築造の古墳(纒向石塚古墳が代表例)をモデルにしたと考えられる古墳で、このタイプの古墳が存在することは、その地方にヤマト王権の影響力が及んでいた証しだと考えられてきた。
那珂八幡古墳もその一つとみられてきたのだが、実際には違った。しかも、出土した土器などから、3世紀半ばの古墳時代初頭、あるいは弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけての過渡期に築造されたとみられ、九州最古の古墳である可能性も出てきたという。纏向型の一つどころか、九州の古墳の本家的存在だったのだ。現地説明会で配られた説明資料には「今回の調査は、各地の古墳成立の過程や、古墳出現期のネットワークを今後検討する上で非常に重要な調査成果となった」と記されている。考古学関係特有の非常にわかりにくい文章だが、古墳時代初期の王権と地方との関係性について、再検討が必要という意味なのだろう。
蛇足だが、那珂八幡古墳の関係資料を図書館で探したところ、『古代の福岡』(アクロス福岡文化誌3、2009)に興味深い記述があった。関係個所を抜き書きすると、「規模は墳丘長約八五メートル、後円部径約五二㍍」「後円部径と前方部長の比率が八対五」「九州各地の古墳時代前期前半の初期前方後円墳の墳形につながると考えられる」「『庄内式』(弥生時代終末期ないし古墳時代早期)の時期に古墳が築かれた可能性がある。とすれば九州最古の古墳となり、大和の纒向古墳群に匹敵する古さと規模の古墳となろう」。2019年の調査で明らかになったはずの事柄が、不思議なことに、その10年前の2009年に出版された書籍にしっかりと記されていた。考古学は不可解だ。私の理解を超えた話なので、ここでとどめておく。
写真は、更地になった前方部から見た後円部。墳丘全体が、古墳名の由来となった那珂八幡神社になっており、頂上部分に社殿がある。社殿下には埋葬施設(第一主体部)が眠っているが、未発掘。第二主体部は1985年の調査で発掘され、木棺墓から三角縁五神四獣鏡(下写真、福岡市博物館で撮影)などが出土している。
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