2020/08/15
舞鶴公園の5号堀にまたも異変
福岡市中央区の舞鶴公園5号堀で、水草が異常に繁茂し、水面を覆い尽くしている。しかも、この水草が枯れ始めていることから堀全体が茶色で、とても水堀には見えない状態だ。この堀は秋から冬にかけては、アカウキクサに埋め尽くされて真っ赤に染まる。3年前の8月には、アオコの発生が原因で、450匹あまりのコイやフナが酸欠死したこともあった。これ以来、5号堀からは魚の姿が消えた。福岡城址の舞鶴公園には、明治通りに沿って1~5号堀があり、さらに公園南側には6号堀があるが、この5号堀では、なぜか度々異変が起きている。
水草の正体は、ギザギザのある三角形の葉、葉柄の中央が膨らみ浮き袋状になっている――などの特徴から、ヒシの一種ではないかと思う。この堀について、常日頃から観察しているわけではないが、アカウキクサ以外の水草が水面を埋めているのを見るのは初めてだ。水鳥か何かによって種が持ち込まれたのだろうか。ヒシは夏場、底土の栄養塩類を吸収して生長するため、富栄養化した池や湖の水質浄化に役立つとも言われる。ヒシに付着している細菌には藻を駆除する働きがあり、アオコの防除に役立つという研究さえある。この研究を読んで、ひょっとしたらヒシの繁茂は人為的なものではないかと疑ったが、多分、例によって私の妄想だろう。
ただし、ヒシの繁茂は良いことばかりではなく、育ち切った段階で刈り取らないと、今度は枯死したヒシが腐敗し、悪臭や水質悪化の原因となる。長野の諏訪湖や福井の三方湖では、ヒシの異常繁殖が夏の風物詩となっているらしいが、刈り取りには膨大な手間がかかることもあり、むしろ厄介者扱いされているようだ。
舞鶴公園の堀は、言うまでもなく福岡城の防御ラインとして築かれたもので、現在の大濠公園も草ヶ江と呼ばれた入り江を埋め立てて築かれた巨大な外堀だった。1607年(慶長12年)の築城当時、堀の総面積は現在の大濠公園部分を除いても約25万平方㍍に上っていたと言われ、城の四方を取り巻いていた。明治以降、現在の天神地区にあった肥前堀など東側部分はすべて埋め立てられ、これによって堀の総面積は4万平方㍍にまで縮小、さらには那珂川と直結していた堀は閉鎖された水域となった。その割には、悪臭がするほど水質が悪化する様子はないので不思議に思っていたが、雨水を循環させたり、堀の2か所に水質浄化用のスクリーンを設置したりなどして、水質維持を図っている成果だという。だとしたら、ヒシも早急に刈り取った方が良いと思う。
写真は今月13日に撮影。比較のため、魚の大量死が起きた3年前の8月末に撮影した写真を2枚目に載せた。
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コメント
鶴城高等女学院跡地について
ところで初代社長の奥村茂敏氏ですが、福岡市の大恩人であることは感謝すべきかと思っています。昭和29年には当時経営危機に陥った日本タングステンの社長にも就任して同社の再建も果たしたところ、昭和31年には小西市長急逝に伴う福岡市長選挙に担がれて立候補、勝利し第15代市長に就任、博多港整備(箱崎・香椎沖の埋め立て事業)、博多駅移転と区画整理、中央市場青果部の開設、市民会館の建設、南畑ダムの建設等の事業を着手して現在の福岡市発展の種まきをされています。高齢なこともあり市長は1期で退任されて、事業は後任の阿部源蔵市長に託されましたが、昭和41年4月に病没されています。
奥村氏の業績を偲び、須崎公園の東側の一角には奥村氏の銅像がひっそりと立っていますのでぜひご訪問ください。また、凸版印刷では昭和58年に現在の社屋に立て直した際に、敷地南側の道を挟んだ、薬院新川沿いの900平米の用地を、奥村氏の遺志に従い、児童公園用地として福岡市に寄贈しましたが、凸版側では「薬院奥村記念公園」との命名を強く要望したのですが、市側が用意したプレートには「薬院記念公園」と元市長でもある「奥村」の文字が意図的にか外されていて、かなりの一悶着があったらしいのですが、開園時には凸版側の要望通りに奥村の文字が入ったプレートに入れ替わった、との経緯があったと聞いていたところ、一昨年、公園の横を歩いておりましてプレートを確認したところ、見事に奥村抜きの「薬院記念講演」に化けておりました、まあ役人の執念は恐ろしいものと感心してしまいました。
年老いた娘さんと公園プレートの以外の話は、奥村氏の評伝「至誠の人」奥村茂敏刊行会(企画(株)凸版アイデアセンター西日本)H5年8月発行を参照しています。尚、同書は福岡市立図書館に4冊蔵書(貸出可)されています。
タイトル記事でのコメントができませんでしたので、このタイトルでコメントさせていただきました。
最近のレポートが途切れておりますので心配しております。
鶴城高等女学校
ところで、以前より駄田泉が調査されている鶴城高等女学院の敷地の問題ですが、終戦から戦後の状況についてかなり詳しい資料を確認しましたので、ご連絡いたします。
女学校の当時の敷地は、西鉄大牟田線から見えている凸版印刷西日本事業部の場所です。
参考資料は、「精版不動産のあゆみ」(昭和63年12月1日発行、発行者 精版不動産株式会社)で、発行者人は戦後に凸版印刷が出資して福岡に設立した印刷会社「精版印刷」が凸版印刷に合併、営業譲渡した際に不動産管理のために商号変更した会社ですので、実際の書籍の内容は精版印刷の社史となっていますが、残念なことに非売品のため、福岡市立総合図書館には蔵書されていません。
問題の箇所は、第1章 創立の経緯 3、会社設立と工場建設 の13ページ 5行目より、
「(昭和23年10月に)会社が早速とりかかったのは工場の建設であった。工場用地については、かねてから日産土木株式会社と交渉中の土地の話が纏まり、福岡市本庄町1丁目3番地に1606坪の土地を坪当り1800円で入手することができた。この土地は戦前の私立鶴城高等女学校の跡地であるが、鶴城女学校は戦争末期に閉鎖、土地建物は陸軍に徴用されて、聯隊区司令部となっていたため、空襲で全焼していた。従って入手の時には全くの更地で、そのまま建築可能の状態であった。」
とあります。本書の主筆者は、精版印刷の設立当時から在籍されていた方とお聞きしていましたので、恐らくは正確な情報かと思慮いたします。しかし肝心の土地買収問題について、文中では続けて
「まことに格好の土地として喜んだが、これが後年、鶴城高等女学校校主であった小野家から異議が出て、裁判問題となって紛糾することになる」と続いています。
この異議問題については、第3章 精版不動産の発足 5、小野幸子事件 として詳しく記載されていますが、土地購入の経緯については、67ページ下段より
「鶴城高等女学校は、明治35年「私立技芸女学館」として発足、大正12年に鶴城女学校と改称したが、付設の「鶴城教員養成所」とともにかなりの有名校で、最盛期には九州各県から生徒が集まる程、地域私学の老舗であった。創立者の小野嘉代から第2代小野正(身弓)と受け継がれたが昭和20年の空襲で全面被災して廃校となり、終戦時は陸軍の軍馬囲いとして使用されていた。2代の小野正(身弓)は昭和12年に死亡するが、問題の土地は昭和14年、相続人小野幸子から、学校の債権者 目良勝眞に譲渡され、以降5回の売買を経て、昭和23年に当社が購入したものである」とあります。
問題の裁判ですが、当初の目良への譲渡が不法行為と断ずる小野幸子が、昭和26年12月に福岡地裁に「所有権取得登記抹消手続請求事件」として提訴するも昭和29年に敗訴、福岡高裁への控訴も昭和30年10月に控訴棄却判決。更に最高裁に上告するも、昭和33年5月に上告棄却の判決となり、これで終結かと思われたところ、昭和38年5月に福岡高裁に再審請求が申し立てられ、昭和40年11月に訴え却下の決定がなされたところ、更に昭和41年1月に最高裁に上告され、昭和42年10月に上告却下により、ようやく終結した模様です。
以上が当方での調査内容です。駄田泉様でご確認等がございましたらどうぞ上記メールアドレスまでご連絡ください。
お元気ですか?